Friday, January 20, 2006

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こちらをメインブログとして準備しています。
よろしくお願いいたします。
Here is prepared as Mambrog.
My best regards.

LOHASなひとたち

2005年12月20日
LOHASなひとたち
大和田順子氏からコメントをいただきました。
大変うれしく思っております。
今後ともよろしくご教示ください。

「LOHAS入門講座」拝読させていただいております。
印象的な箇所を記述したいと思います。

▼LOHAS層は、
1 グリーンコンシューマーとは異なり、個人の欲求が満たされることを重視する。
2 スローライフ志向層よりは消費意欲が高い。

▼特徴は、
1 健康に関心が高い
2 環境問題に関心が高く、実際に行動している。
3 自己を高める意欲がある。
4 購買意欲が高い
5 消費行動において、自分の物差しを持っている。
6 企業評価を商品のみではなく、環境や社会問題への取り組みから行なう。
7 品質・デザインへの関心も高い。

「高い」という文字が幾度となく使われております。
こちらの気分もなんだか高まってまいります。
こういったところも「スローライフ志向層」とは幾分異なるところでしょう。
4 あたりでグッときます。美味い仕掛けですね。おさえは7。
でも大半は「安い」ほうへ流れるのですよね。
このあたりの微妙なバランス操作が今後の課題となりそうですね。

▼調査・現況は、
1 日本人の約3割がLOHAS層に該当する。
2 星野リゾート(トマム・ガレリアタワースウィート)はLOHAS企業である。

作シーズンのスキー家族旅行でお世話になりました。
とっても満足。
今シーズンもトマム・ガレリアです。
LOHAS企業だったのですね。
今から楽しみです。

▼他のキーワードは、 
1 持続可能性に配慮。
2 原料の産地・プロセス・廃棄の仕方の情報をオープンにする企業。
3 顧客との長年にわたる信頼関係に力を注ぐ。
4 取引先とは互いに尊敬し、互いの発展に努める。
5 従業員を大切にしているか。

*ヨガについてはほとんど無知なのでこれくらいですみません・・・。

▼追加があります。
オーガニック野菜。
オーガニック農業。

ちょっと眠くなってきました。
お休みなさい。

つづく
yskkyhh3 at 22:35|この記事のURL │Comments(0) │TrackBack(1)

LOHASてきなまちづくり

2005年12月19日
LOHASてきなまちづくり
LOHASの「メルマガ」と「LOHAS入門講座」に登録いたしました。
大和田順子氏のブログに「LOHASなまちづくり関連の情報をお伝えする」旨あったからです。

一口にローハス・ロハスといっても、その言葉の向こう側は広く深いもののようです。

「診療報酬3.16パーセント下げ、医療費国庫負担2400億削減ね。介護報酬も・・・。」
という妻に「ローハスって聞いたことあるね?」と問うたところ「靴屋?」とのこたえ。
いいですねぇ。こういう感じがまさにLOHAS的ではありませんか?

ちなみに妻の手はあかぎれです。
誰よりも早く起きて掃除・洗濯・朝ご飯の支度を毎日欠かさない妻の手。
触るとざらざらしています。
敬服しております。今朝も元気に子供達は学校に行きました。
大和田さんの手はどうですか。

LOHASとは
「Lifestyles of Health and Sustainability の頭文字をとった略語で、健康を重視し、持続可能な社会生活を心がける生活スタイル「LOHAS」ローハス(ロハス)が米国で注目されている。日本でこんなレポートを紹介したのが、消費生活アドバイザー 大和田順子氏で、2002年9月21日付日本経済新聞でレポートしたのがきっかけとなり、最近ではしばしば目にするキーワードとなりました。」

音楽の分野では坂本龍一教授が知られていますね。よくわかります。


yskkyhh3 at 07:09|この記事のURL │Comments(1) │TrackBack(0)

編集の難しさ

2005年11月11日
編集の難しさ
はじめてのDVDの製作・企画で勉強させていただきました。
そして、その企画調整のむずかしさを痛感いたしました。

広報誌や記念誌作成時にする校正は重要な作業です。
文字の間違いや文章表現。
読者が誤解しないような言葉の使い方、並べ方。
DVDとなれば視聴者に対して、絵とスーパーと音声・ナレーション。
情報伝達の速度と量が増すほどに編集処理能力の高さも要求されます。
限られた時間でどれだけのものを作成し伝えられるか。
実際に仕事をして、その大変さが身にしみました。

学んだのは、DVD製作・シナリオ編集です。
「郷土史研究家や担当者」と「お寺のご住職さん」とで、
微妙に地名や名称の読み方・呼び方が違うことがあります。
また、内容についても捉え方やニュアンスが違う場合があります。
これを郷土史に関わる方々は、大局的にいえば、
実際に使われている地元住民の「言いまわし」を重要となさいます。
一方ご住職は「そもそも○○のほうが正しい」と、
「正しさ」と「誤り」で意見なさる場合があります。
双方まさに正論なのですが、こうした場合、最終的に選択は編集者にかかってきます。
納期までに精査し調整できればよろしいのですが、
限られた時間とマンパワーの渦中にあって、
エイ、ヤーと進めなければならないこともあります。
今回は最終の編集段階で前者の手法を採ると決めていました。
ここに落とし穴があったわけです。

紙面では問題ありませんが、これが音声となれば重要です。
濁音か清音か。さらにつっこめば鼻濁音か否か。
(鼻濁音までくれば、深いです。むしろ議論を楽しめます「が」・・・。)
TV局で幾度となく取材し放送されている内容ゆえ、
特段の問題も感じずに編集した一部表現についてご指摘をいただきました。

ありがたく思っております。

作成したDVDも頒布がすすみ、残り少なくなってきました。
「面白かった。」「よくできている。」
とのお褒めの言葉だけに甘んじるだけでなく、
先のようなご指摘を素直に受け止めながら、
今後も広報活動従事に精を出したいと思います。

もちろん楽しみながら。
yskkyhh3 at 01:30|この記事のURL │Comments(0) │TrackBack(0) │雑感

山田義見伯祖父

2005年03月09日
山田義見伯祖父
 私の祖母の兄は山田義見でございます。私が幼少の頃、祖母はことあるごとに「義見さん」の話をして聞かせてくれました。子供ながらに、とっても偉くて遠い存在の人とおもい描きながら祖母の話に耳を傾けたものです。最近ちょっとしたことから、地元で伯祖父のことが話題になったものですから、グーグルで「山田義見」と入力し検索してみました。そうしたら上位から伯祖父その人のことが連なっているではありませんか。生前の業績や評価を一つ一つ楽しく読ませていただきました。祖母からは聞いたこともないような内容を読み進むにつれ、そのことを文字にせずにはいられなくなったところでございます。以下そういったページからのものを参考に、一部は抜粋させていただきながら記載したのものでございますがご容赦ください。

“元会計検査院長の山田義見も池田直氏も汚職を嫌い、いささかの歪曲もゆるさぬという強烈な正義意識、非政治性は結局は葉隠の威風かもしれないが、その体質が選ばせる分野はやはりそういうところにあるのかと思い、興味深かった。 汚職どころかえこひいきですら秩序の敵であるということを、この秩序好きの精神をもった風土からして骨髄にしみこませているのであろう。そのため、閥をつくることをしない。”

と、いったようなくだりを見るに真っ直ぐに国のために一生を捧げられた人柄が偲ばれます。今次の「個人のため」とか「自分のため」とかいった気障な概念から遠く超越したところに身を置く方々に尊敬の念を抱くのです。
 
 先の引用文は“司馬遼太郎氏著『 歴史を紀行する』をとあるひとが『司馬遼太郎のみた世界』の中でまとめられた文章より”引用されたものらしいのです。
ネット上で『体制の中の反骨精神』という題で紹介されております。
 
 その他、『國語問題協議會 物故役員名簿』からは「山田義見 會計檢査院院長」と記されている欄を見つけるのは容易でした。
 しかし、その名簿にある方々に驚かずにはいられないのです。「評議員」として各界の著名人がずらりと記されているではありませんか。恐れながらも敬称を略させていただきながら、ここにご紹介させていただくことをお許しください。

阿部 眞之助 日本放送協會會長
青木 一男 辯護士
青木 正兒 日本學士院會員
石川 梅次郎 二松詩文會代表
石坂 泰三 經團連名譽會長
石田 波郷 俳人
石田 幹之助 日本學士院會員
坂倉 卓造 産經新聞主筆
伊藤 正徳 産經新聞論説委員長
岩瀬 英一郎 三越社長
梅澤 健三 東洋大學教授
大濱 信泉 早稻田大學總長
大谷 瑩潤 參議院議員
大矢 知昇 東横社長
隱岐 彰男 東京集遞社長
澤潟 久孝 京都大學名譽教授
河野 勝齋 日本醫科大學埋事長
角川 源義 角川書店社長
全子 光晴 詩人
久保田 萬太郎 小説家
小泉 信三 慶應義塾大學塾長
小宮 豊隆 評論家、東北帝國大學教授
佐藤 春夫 詩人・小説家
澤田 竹次郎 最高裁判所判事
信貴 英藏 紙パルプ倶樂部會長
鈴木 信太郎 東京大學名譽教授
鈴木 正男 大東塾・不二歌道會代表
高田 眞治 東京大學教授・大東文化大學教授
高日 保馬 大阪大學名譽教授
高津 才次郎 國語教育學者
辰野 隆 東京大學名譽教授
田中 鐵三郎 日本外交協會會長
谷崎 潤一郎 小説家
丹 薫 東京學藝大學教授
津田 左右吉 早稻田大學名譽教授
永田 菊四郎 日本大學總長
中村 庸一郎 衆議院議員
中山 義秀 小説家
長谷川 伸 小説家
長谷川 如是閑 評論家
林 房雄 小説家
原 彪 衆議院議員
久松 潛一 東京大學名譽教授
日夏 耿之介 詩人、早稻田大學教授
平林 たい子 小説家
廣津 和郎 小説家
古田 重二良 日本大學理事長
豊道 春海 書家・藝術院會員
松永 正修 昭和女子大學講師
松本 洪 漢學者
三島 由紀夫 小説家
御手洗 辰雄 評論家
三宅 晴輝 經濟評論家
村上 勇 衆議院議員
室生 犀星 詩人・小説家
柳田 國男 民俗學者
吉田 一穗 詩人
吉田 秀雄 電通社長
吉田 良次 丹養塾幼兒園園長
吉野 秀雄 歌人
萬 直次 日本經濟新聞社長
渡邊 一夫 東京大學名譽教授
尾山 篤二郎 歌人
芥川 比呂志 俳優
麻生 太賀吉 九州電力社長
石川 淳 小説家
石田 博英 衆議院議員
伊藤 正雄 神戸女子大學教授
井上 英煕 日本セメント社長
井上 靖 小説家
岩下 俊作 小説家
飯沼 一省 神奈川縣知事・廣島縣知事
浦松 佐美太郎 評論家
植木 庚子郎 衆議院議員
臼井 吉見 文藝評論家
宇野 浩二 小説家
奥村 土牛 日本畫家
大久保 康雄 米文學者
大濱 英子 東京家裁調停委員
大井 廣介 評論家
大岡 昇平 小説家
岡見 正雄 京都女子大學教授
岡村 二一 東京タイムズ會長
尾崎 一雄 小説家
海音寺 潮五郎 小説家
景山 直治 大學講師
嘉悦 龍雄 銀行員
梶原 茂嘉 參議院議員
加藤 常賢 二松學舍大學名譽學長・大東文化大學教授
河上 徹太郎 文藝評論家
木村 毅 文藝史家
木村 篤太郎 辯護士
工藤 良三 公立學校教員
小島 政二郎 小説家
小林 秀雄 文藝評論家
今 東光 小説家
佐藤 市之助 參議院參事
里見  小説家
佐伯 勇 近鐵會長
澤野 久雄 小説家
神保 光太郎 日本大學教授
杉森 久英 小説家
高田 博厚 彫刻家
高橋 浩一郎 氣象廳長官
高橋 雄豺 香川縣知事、讀賣新聞最高顧問
瀧井 孝作 小説家
竹田 復 東京教育大學教授
田中 西二郎 評論家
田中 千禾夫 劇作家
田中 美知太郎 京都大學名譽教授
田村 幸策 中央大學教授
田村 輝雄 法政大學教授
田岡 典夫 小説家
長澤 規矩也 法政大學名譽教授
永野 重雄 日本商工會議所會頭
中村 草田男 俳人
中村 汀女 俳人
中村 光夫 評論家
西島 麥南 岩波書店
二宮 冬鳥 歌人
鳩山 薫子 共立女子大學學長
林 忠一 日本旅客船協會事務局長
火野 葦平 小説家
福原 麟太郎 東京教育大學名譽教授
福本 喜之助 關西大學名譽教授
藤山 愛一郎 衆議院議員
藤岡 通夫 東京工業大學名譽教授
藤井 新一 三重短期大學學長
細川 隆元 評論家
本間 久雄 早稻田大學名譽教授
松本 重治 國際文化會館埋事長
眞船 豐 劇作家
水原 秋櫻子 俳人
村松 剛 文藝評論家・筑波大學教授
森 茉莉 小説家
矢野 峰人 詩人、東京都立大學學長
山岸 徳平 東京教育大學名譽教授
山口 青邨 俳人、東京大學名譽教授
山田 義見 會計檢査院院長
山之口 模 詩人
結城 信一 小説家
吉田 健一 文藝評論家
吉田 精一 埼玉大學教授

以上の方々です。

伯祖父の山田義見は平成3年5月に他界いたしました。
父達は上京し葬儀に参列いたしました。

地元に在る山田家の墓は、私の母親が折に触れお参りさせていただいております。
この度は、お彼岸に私と妻と子どもたちと一緒に墓参りをすることにしました。
「おかげさまで家族みんな元気です。長男は中学に進学いたします。」
と、墓前にて奉告いたしましょう。

こんな機会を与えていただいた町史編纂関係者、広報担当者、それとインターネットに感謝です。

yskkyhh3 at 14:53|この記事のURL │Comments(0) │TrackBack(0) │雑感

家制度

2005年02月22日
家制度
▼「家」とは何か・・・
本来の語義は2つあるらしい。
“全訂体系・戸籍用語辞典”によれば
“ひとつは「現実の家族的共同生活形態」で、夫婦とその子という小家族やその他親族を含む大家族”をさしているそうだ。
“もうひとつは祖先・現在・子孫と血縁で承継される生活の規範である。”
 ひとことで言い表すのなら「家」は「血縁で承継される生活の規範」をかたちづくる「共同生活形態」といえようか。

 旧民法でいうところの家制度は“「家」「戸主」「家督相続」を3つの柱とする法律制度であり、日本国民はすべて特定の「家」に所属すべきものとされ、親族、夫婦、親子、相続、その他あらゆる身分関係の変動に対して「家」からの制約がある”そうである。

 終戦後、憲法24条に「個人の尊厳」「両性の本質的平等」が謳われた。昭和23年1月1日施行である。これにより民法上「家」の制度は“廃止の運命にあった”とされている。
 果たしてそうなのだろうか。
 「個人の尊厳」。
 当たり前ことである。これまでも当然のこととしてあったであろう。
 「両性の本質的平等」。
 これも理解できる。
 しかし、「家」は解体されてはいない。また、壊れてはいけない。
 これまでも、これからも、未来永劫ずっと「家」は在り続けるべきものとおもう。
 父・母・子・祖父母・曹祖父母・高祖父母・孫・曽孫・・・。

▼「氏」とはなにか・・・
 旧法の氏は「家」の呼称。
 新法では「個人」の呼称。
 しかし、各個人が自由に創始し変更できるものでもない。
 新民法では氏を同じくするものとして「夫婦」「親子」を規定している。
 つまり大雑把に言えば「生活形態が同じ者が同じ氏を使う」ことが規定されている。さらに誤解を恐れず言わせてもらえば、夫婦とその子といった「小家族」が氏を同じくすることで「家」をかたちづくり、一体をなす。
 旧民法の「家」はなくなったが、「家」は今も在る。
「小家族」も「大家族」も在る。「氏」はそれらをつなげて、かたちづくる。
 現民法の「個人」の「呼称」として「氏」はもちいられながらも、「家」は在り続けるのです。

▼明治より前の「家」は・・・
 わが国の戸籍の起源は、日本書紀から大化の改新以後の大化2年正月改新詔書公布後6年目西暦652年であるらしい。また、戸籍のことを「ヘフミタ」と呼び、「へ」は「戸」「家」のことで「フミタ」は「文板」のこととされている。これは各戸(家)ごとに6年に1回調製され、50戸をもって1里を構成し、長1人がおかれていた。
 さらに大宝令、養老令による造籍が重ねられ、整備されていった。
 戸籍の6年1造制は、平安時代までほぼ維持されていたらしい。
 武家時代になると朝廷の権威も衰えて6年1造制も励行されなくなったが、鎌倉時代諸大名はこれと同じような領民把握の施策を行い、江戸時代になっては幕藩体制が整備されるにともない、人数調などがなされてきた。五人組帳・人別帳・宗門改帳などがあるらしい。
 王政復古まもない明治元年11月、戸籍仕法が制定され、明治5年の壬申戸籍から明治19年式戸籍・明治31年式戸籍を経て大正4年式戸籍へと改製がすすむことになる。そして、現在の戸籍。
 「家」は1300年前からの「戸籍」をつうじても今に在るのです。

▼ちょっと強引なところがあったかも知れませんが、ご容赦くださいませ。
「個人の尊厳」とか「個人の権利」、「個人の自由」とかいったことを見聞きするとき、それは特異なことではなくむしろさらりと受け止める自分に気づくのですが、こと「家」とかというと、ことさら特別なことのように受け止められがちな状況に出くわすことがあるのも事実です。「家を守るため」と言った瞬間にとんでもないようなことを言ったような感覚といえばわかりやすいかと思いますが、こんな状況こそ払拭しなければ、今後ますますおかしな方向に行ってしまうのではないかと危惧してしまうのであります。

▼夫・妻・子を愛することと同じように「家」のことをおもえること。
「家」は見たり、触れたり、喋ったりできませんが、愛情を注ぐことはできますでしょう。形のないものをおもうこと。これこそ崇高な精神のうえにあるものです。
 小学校や中学校で教育できる内容だと思うのは私だけでしょうか。
 誰か教育してくださいませ。

yskkyhh3 at 15:22|この記事のURL │Comments(0) │TrackBack(0) │雑感

清貧と結婚 <教養主義>

2005年01月28日
清貧と結婚 <教養主義>
「月刊 ランティエ創刊号」。
明朝体の漢字を縦書きに配した表紙レイアウトがとても新鮮に感じた。
気にいった。
ぱらぱらとめくって買うと決めた。
写真と文字のバランスがとてもよいのです。
そして美しい。

創刊特集は「よみがえれ うつくしい にっぽん 日本人論」。
誤解されやすいようなタイトルなのだが、執筆者からすごい。
識者11人の眼力は相当のものがあると感じた。

中でも文芸評論家小谷野敦氏は明快だ。
以下言葉を借りる。

「成長などしなくていい・・・70年代のレベルでいい・・もう景気が悪いと歎くのはやめるべきだ・・生活水準を下げたくないから結婚をしたがらない・・彼女らは貧乏に耐えられないのだ」という見方から歴史観へ「・・徳川時代には『分を知る』ということが重視された。分を知らなければ、分不相応というレッテルが貼られ、社会的に抹殺された。・・」。つまり結婚しない彼女達は社会的に抹殺されているのだ。彼女達はそのことに気づいていない。「世間ではまだ非婚化が進んでいる」が、一方で「若い人の結婚回帰が始まりつつある。」いずれにしても、結婚をして子どもを生み育てるには今よりもっと生活水準を下げることになる。「かくなるうえは、清貧でやっていくほかあるまい。無駄に動き回らず、『晴耕雨読』を心がけるものよさそうだ」。結婚回帰。未来は婚姻適齢期の若い人たちに期待したい。

「・・これまでは『便利の追求』に躍起だったが、それは寄り道の楽しさを奪ってしまった。こんな時だからこそ・・『教養主義』に触れるのもいいかもしれない。(談)」

どうですか。
教養主義。
清貧と結婚。
それでも「裕福な生活・理想の人」を求めたいですか。
yskkyhh3 at 05:48|この記事のURL │Comments(0) │TrackBack(0) │雑感

石井良一先生著「武雄史」を読む<健康増進法>

2005年01月25日
石井良一先生著「武雄史」を読む<健康増進法>
 石井良一先生の令孫石井義彦先生は、「武雄史」の発行者であります。
そのむすびにかえて、祖父の「思い出」を寄稿されています。中でも「健康法」のくだりは大変感慨深かったのでここに紹介させていただきます。

 “元来祖父は心身ともに、誰にも負けぬほどの元気者でしたが、何か積極的な健康増進法をやらなければ、生来の丈夫さだけではどうしても年にうち勝っていくことはできないといっておりました。朝、家族の誰よりも早く起きるとまづ水風呂を浴び、そして裸のままで十分ばかり我流の体操をやるのです。これが祖父の自慢の健康法で、夏も冬も、また仕事の関係で北海道に行っていた時も、一日として欠かしたことがありませんでした。方々の史蹟の調査に行くにも、3里ぐらいの所までは必ず歩いて行き、お供をいいつけられた私もこれには全く閉口したものです。歩くのが健康の第一歩だというのです。”

 健康増進法は、
 第一に「水風呂」。
 第二に「裸で我流の体操を10分」。
 第三に「歩くこと」。

 いまの私の生活ではとうてい実行できないような事柄です。
 当時60歳にしてなんと精力的でありましょうか。
 また、徒歩も3里とのこと。わが家から武雄往復くらいの距離です。
 そういえば私の祖母(ミワ)も学生時代、北方から武雄女学校まで歩いて通学していたとを申しておりました。それがまいにちなのですから・・・当時は大変だったろうと思います。健康法とは意味合いが違ったかと思いますが、今時の交通事情や環境からみれば「歩く」ということはとても素晴らしいことのように思えます。しかしながらそんな時代に戻れるかというとこれまた困難のようです。ゆっくりとした時間の使い方は今思えばとても贅沢なことなのかもしれません。
 
 それにしても私を含めて人は歩かなくなりました。道を歩いているのは児童・生徒と高齢者の方々(夜や早朝に)ばかりです。これは私の住む地方で顕著です。
 徒歩で通勤していた時がありました。道路を歩いていると、心配してか路肩に車を止め、声をかけてくださることがしばしばありました。その都度、歩く理由をお話しておりました。なかには、免許取り上げかなにかで自動車に乗れなくなったのではないかと心配なさった方もおられたりして、困惑したりもしました。なんだかんだしているうちに忙しさも後押しして、いつの頃からか徒歩通勤・自転車通勤を止めてしまいました。
 
 歩くことは老後の楽しみなのでしょうか。

「スローライフ」と「スローフード」。最近よく見聞きします。
ともに、よい響きの言葉です。
 

石井良一先生著「武雄史」を読む<健康増進法>

2005年01月25日
石井良一先生著「武雄史」を読む<健康増進法>
 石井良一先生の令孫石井義彦先生は、「武雄史」の発行者であります。
そのむすびにかえて、祖父の「思い出」を寄稿されています。中でも「健康法」のくだりは大変感慨深かったのでここに紹介させていただきます。

 “元来祖父は心身ともに、誰にも負けぬほどの元気者でしたが、何か積極的な健康増進法をやらなければ、生来の丈夫さだけではどうしても年にうち勝っていくことはできないといっておりました。朝、家族の誰よりも早く起きるとまづ水風呂を浴び、そして裸のままで十分ばかり我流の体操をやるのです。これが祖父の自慢の健康法で、夏も冬も、また仕事の関係で北海道に行っていた時も、一日として欠かしたことがありませんでした。方々の史蹟の調査に行くにも、3里ぐらいの所までは必ず歩いて行き、お供をいいつけられた私もこれには全く閉口したものです。歩くのが健康の第一歩だというのです。”

 健康増進法は、
 第一に「水風呂」。
 第二に「裸で我流の体操を10分」。
 第三に「歩くこと」。

 いまの私の生活ではとうてい実行できないような事柄です。
 当時60歳にしてなんと精力的でありましょうか。
 また、徒歩も3里とのこと。わが家から武雄往復くらいの距離です。
 そういえば私の祖母(ミワ)も学生時代、北方から武雄女学校まで歩いて通学していたとを申しておりました。それがまいにちなのですから・・・当時は大変だったろうと思います。健康法とは意味合いが違ったかと思いますが、今時の交通事情や環境からみれば「歩く」ということはとても素晴らしいことのように思えます。しかしながらそんな時代に戻れるかというとこれまた困難のようです。ゆっくりとした時間の使い方は今思えばとても贅沢なことなのかもしれません。
 
 それにしても私を含めて人は歩かなくなりました。道を歩いているのは児童・生徒と高齢者の方々(夜や早朝に)ばかりです。これは私の住む地方で顕著です。
 徒歩で通勤していた時がありました。道路を歩いていると、心配してか路肩に車を止め、声をかけてくださることがしばしばありました。その都度、歩く理由をお話しておりました。なかには、免許取り上げかなにかで自動車に乗れなくなったのではないかと心配なさった方もおられたりして、困惑したりもしました。なんだかんだしているうちに忙しさも後押しして、いつの頃からか徒歩通勤・自転車通勤を止めてしまいました。
 
 歩くことは老後の楽しみなのでしょうか。

「スローライフ」と「スローフード」。最近よく見聞きします。
ともに、よい響きの言葉です。
 

2005年01月07日医王寺権現熊野神社

祭神 

伊邪那美命
大山祇命
市杵島姫神
多岐津姫神
速玉男命
菅原道真
建御名方神
事解男命
保食神
多岐理姫神

高倉院の御宇、養和元年秋、小松重盛兼ねて信仰の唐土育王山に似たる名山なりとて、紀伊國熊野権現を分祭し、当山と当村とを社頭とし、末社小社に至るまで美々敷飾立て、中宮新宮等を建立して、社家寺院馬場の左右に軒を連ね、東南の山々を日月両輪に像り、又金子一千両と太刀一振とを奉納し、繁華の社なりしが、平家没落の後、漸々衰微して社家寺院も次第に滅し、しかのみならす元亀年中兵火にかかり、残らず塵灰となれリ、然るを慶長12年領主多久長門守安順、往古の大社空しく廃頽せる事を歎き、社殿を再建して祈願所とせり、夫より累代領主の崇敬厚く、社殿の改築祭費の寄進絶ゆる事なく、以って明治維新に及へり、明治8年村社に列せらる、祭神大山祇命外六柱は無格合祀に依り追加す。

大正2年7月神饌幣帛料供進指定
氏子戸数94戸